アイディアは熱いうちに打て

1988年生まれ。福岡出身のメガネが書く雑多ブログ

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イマムラアユムの生い立ち(0歳~6歳)


こんにちは。

ブロガーのイマムラアユム(@ImamuraAyumu)です。


自分の生い立ちを言語化してみたいなと思っていたので

これからちょっとずつ分けてブログに書いていきます。


記憶に残っているエピソードを中心に書いていき

自分自身の棚卸をするつもりです。

まずは誕生から6歳までを。


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福岡県久留米市花畑で過ごした幼少期

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1988年(昭和63年)の10月4日、お昼ごろ。

 

福岡県久留米市で、私は元気にこの世に生まれました。

あ、画像は2歳の頃の私です。 



私の母は福岡県糸島市出身の

天家の一人っ子。

 

父は福岡県久留米市出身で、

今村家3人兄妹の長男。

 


山と海、自然の中で生きてきた田舎育ちの母。

福岡県で第3の都市とよばれる久留米で育った父。

全く違った環境で育った2人の間で私が誕生しました。 

 

 

幼少期は、久留米の「花畑」という地域で過ごしました。

当時の花畑は町全体を活性化させるために、

駅を作ったり道路を大きくしようとしている真っ最中でした。

(平成4年から始まった土地区画整理事業のこと)



今年(2016年)に、現在住んでいる広島から

福岡の糸島まで、墓参りに行ったついでに久留米の花畑にも寄りましたが

私が幼少期に住んでいたアパートが

どこにあったのかさえも分からないほどに道路が整備されていましたね。


アパートの目の前に大きな大きな樹があったのですが

その樹の姿も見えなかったから、あの樹も伐採されちゃったんだろうなあ。


私が幼少期に過ごした花畑の風景は、

もう今の花畑には、ほとんど残っていませんでした。


祖母と私の関係

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私の父は、めったに家に帰ってくることがなかったような気がします。

ようするに父と母は別居状態だったと思う。

しかし父は子供を育てるための養育費や生活費を、母に渡したりもしてなかったようです。


私がほんっとに小さい時は父もよく家にいたのかもしれませんが、

私の記憶に残っている父は

 

1年に1回その姿を見るか見ないかくらいだったような…(笑)


それくらい、私にとって父はめったに出会えない希少種(レアもの)でした。 

 

なので私は小さい頃から、母と3つ上の兄に面倒を見てもらって育ってます。
 

 

祖母(母の母)も面倒を見てくれていて、

家にもよく泊まりに行っていたのですが、

 

祖母は兄のことを気に入っていて、

 

私に対しては良い思いを抱いてなかったようで… 

 

(私がいわゆる大人のいう事を素直に聞く

「良い子」ではなかったからだと思います。

わがままでひねくれた生意気なクソガキでした。いやマジで)
 

 

ゆうてまあ祖母にも面倒を見てもらってましたが、

「可愛がられた」という記憶があまりないんですよね。


私が何かあって泣いてても祖母は

「泣く子はうちの子じゃなか!!!出ていかんね!!」
 

って怒って、慰めるどころか逆に厳しく叱咤するタイプでしたね。


と、まあこんな感じなので、兄だけ祖母の家に泊まりに行くことはしょっちゅう。 
 

 

当時母は一人で子供2人育てるために、

言葉の通り「一日中」仕事してたので

私は誰もいない家で一人でテレビ見てたり
 
ひとりでスーパー行ったり、夜中にふらふら公園行って遊んだりしてました。



祖母のことを「ばばちゃん」と呼んでいたのですが、

 

私は小学生の頃、よく「ばばちゃんは私のことが嫌いなんだ」って

日記に書いていた記憶があります。



ほんとは「ばばちゃん」にも愛されたかったんでしょうね。

 

しかし私は家庭環境の影響があってか、

とんでもなくひねくれたガキで

面と向かって自分の気持ちを伝えられませんでした(今もですが)



小さい頃から私はイライラすると

チラシの裏の白紙にひたすら絵を描き殴ったり、

 

文字を覚えると自分の思いをメモ帳なんかに書き綴ってましたね。
 

 

面と向かって自分の感情を相手に伝えるのが苦手だから

本音の感情をぶつけれる場所が「紙の上」だったのでしょうね。 

 

そういうところは、今も変わっていません。


 

両親のケンカしている姿

たまーに父が家に帰ってくる(立ち寄る)と、もう大変です。

 

今でも記憶に残ってるのは、父と母がケンカしている姿。
 

 

ケンカ、というより、母が一方的に怒鳴り散らして

 

父がそれをカップラーメン作りながら聞き流している光景

 

といったほうが現実に近いですね。



その当時私は5歳くらいだったと思います。

父が久しぶりに帰ってきて、

キッチンでカップラーメン用のお湯を沸かしていました。


そこに母が帰ってきたのか、それともずっと家にいて

おもむろに父に話しかけたのかは覚えていませんが

父と母が「大人の事情」っぽい会話をし始めて

徐々にお互いの声が大きくなりケンカになりました。


母がヒステリーを起こしたようにわめきたて、

2人のすぐそばにあった洗濯物かごを

投げるか殴るかした音が家中に響き渡りました。


そのとき私は別の部屋で兄と一緒に布団にくるまって、

両親がケンカしている姿を

ぶるぶる震えながら見つめていました。
 

 

「ケンカしないで。怒らないで」って

 

強く思っていましたね。

懐かしいなあ。



これが幼少期に一番記憶に残っている、

父と母が会話している時の姿です。


親がケンカしてる姿って子供にはすごい恐怖なんですよね。

 

20年以上たった今でもその光景を覚えているくらいには脳裏に焼き付きます。



父はどうやら外に何人も女を作って、自分の寝床である家も別に借りていたようです。



正直なところ、父がそうやって母から「逃げた」理由も分からなくはありません。

 

性格的には私は母より父似なんだと思います。 

 

それは母も分かってるみたい。
 

 

私も10代の頃に、母が私に激怒しているのを横目に、

 

冷静に自分のご飯を作ったりしてたことありますからね(笑)


 
6歳の時に両親が離婚

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そんなこんなでとうとう両親が離婚。

「お父さんとお母さん、どっちと一緒に住みたい?」という、

今思えば究極な選択を、6歳の私は母に迫られました。
 

しかもその時なぜか私は

「お父さんと一緒に住みたい」とかぬかしやがったのです。


貴様!

誰に育ててもらったと思ってんだ!!

誰の腹から生まれたと思ってんだ!!


そこは「お母さんとに決まってるでしょ」っていうべきだっただろ!!

このKY!!

マジで空気読めよな!!

私のKY!!


…はい。


私の記憶がおぼろげなのですが、

その時は「お父さんと一緒にこの家に住んで、時々お母さんとも会えたらうれしいな」

ってぐらいに思ってたような…。
 

私にとって「父」とは滅多に見れない希少価値の高い生き物だったのですよ。

だから、一緒に住んだら毎日そばにいれるって思っていたんだと思います。

でもそれは、その当時私が住んでいた家で一緒に暮らしたかったんですよね。


父に連れ去られた先は母子家庭

両親が離婚し、私は母と兄に「さよなら」をし、

父が来るのを家でずっと待ってました。
 

「この家で一緒に暮らせるんだ。楽しみだな」って

ワクワク…してたかも。
 

しかしいざ家に父が来ると、すぐに父が別の場所に私を連れて行こうとしました。

でもわたしは「この家」で父と一緒に暮らしたかったんです。
 

「イヤだ、どこにも行きたくない!!」と

しばらく駄々をこねまくったあげく、

とうとう「今日はこの家で一人で寝る」と父に訴え、

そのまま父は「分かった」と家を出ていきました。


が、しかし、ほどなくして再び帰ってきた父。

どうやら私を引き取ろうとしている、

当時父と付き合っていたらしい女性から、

「6歳の子供を一人で家に置いて帰るとは何事だ」と怒られたようです(笑)


強制的に父にだっこされて、車に乗せられて私が向かった先が…

小学生の子供と高校生(中学生だったかな?)の子供がいる女性の元でした。

 
そこで私は…どのくらいの間過ごしたんだろ…?

一ケ月はいたのかな?あんまり覚えてないのですが、

そこの家庭のお子さんたちは、私にすごく良くしてくれました。


小学生の2人は私を仲間に入れてくれて、

よくテレビゲームして遊んでくれてた。


一番上の子が確か高校生だったと思うのですが、

すごく優しかった覚えがあります。


というか、「かわいそうだな…」

みたいな目で見つめられてたような記憶。

当時の私の境遇に同情したのでしょうね。


とにかく子供たちも、父の不倫相手?であった女性も、優しくしてくれてました。

だけど…

私はその女性のことがあまり好きにはなれなかったのです。


表面上は優しく世話してくれていたのですが、当時の私は感じ取っていました。

常に監視されているような…

そして警戒されているような雰囲気を。


その人から私は、本当の母から受け取っていたような

「愛情」を感じ取ることができなかった
のです。


まあ、今思えばそりゃ愛情なんて注げないですよね。

だって、その女性からしてみたら私は、

「自分が好きな男が唯一結婚した女の子供」ですもん。

そりゃそう簡単に愛することなんてできないでしょうよ。


そして私はそんな気持ちを察し始めて

「本当のお母さんのところに戻りたい」

強く、そう思いだすようになりました。



逃走劇
とうとう私はその家から自力で逃げ出そうとします。
 

学校は家が変わっても転校手続きをまだしていなかったので、

学校まではバスで通うようになっていました。

逃亡を試みたその日は、学校が終わったあとに昔住んでた家まで行って、

そこに置きっぱなしにしていた自分の自転車に乗り、

母が新しく暮らし始めているアパートまで走りましたね。


どのくらいかけていったのかな…、

母の家に着くまで30~40分はかかってたと思います。

しかも雨が降っていて、途中で滑ってコケたのを覚えてます。


どろだらけになりながらも必死で母のアパートまで行ったのですが、

なんと、その時母は留守でした。

私は自分が来た形跡だけも残そうと、その時に自分が来ていた上着を、

母の部屋のベランダに投げ入れてから

しぶしぶその日はあきらめて帰路につきました。


母は父に電話した「娘に会わせろ」と

私がアパートに来ていたことを知った母は、

そのあと父にすぐ連絡を取ったようです。


「娘が家まできていた。娘に会いたい。

せめてご飯くらい一緒に行かせてくれ」
と。

父は母にこう言ったそうです。

「アユムは俺の子だ。だから会わせられない」


おとん…お前…

今まで散々面倒見てなかったクセに、そういう時だけ父親づらかよ(笑)

 

当時の母は、ご飯さえも一緒に食べさせてもらえないのか、と激怒したようです。

私自身も、もう父の不倫相手の一家に馴染もうなんて思っておらず、

母の元に帰りたいとその後も訴えていたよう。

その時期の記憶はあんまりないです。


じきに私は母の元へ帰ることができました。

この当時、どうやら母と父の間では私を育てる権利を巡って、

色々と争いがあったみたいですね…。


その後も続く複雑な学校通学

私は母に引き取られ、当時久留米の野中町にあった

母の住むアパートに母と一緒に暮らすようになりました。


兄は合川町にある祖母の家と母の家を行き来していました。

基本的には祖母の家に住んでいたような…。


しばらくは母のアパートから今まで通っていた小学校へ

自転車で通学していました。
 

しかし母の借りたアパートが、通っていた小学校の「学区外」だったこと、

小学校の「自転車通学」が許可されていないこと、

そして兄はとっくに転校手続きをしており、

兄は祖母の家から近い小学校に通っていたことなどなど色々あって、

学校側と何かと問題が起こってたみたいですね。
 

さすがに兄妹で通っている学校が違うとちょっと問題になっちゃうよね…。
 

ってことで、私は母の住む野中町の学区内の小学校ではなく、

祖母に家のある合川町の学区内の小学校に転校することになりました。 


アパートから小学校までは歩くと普通に1時間以上かかります。

遠い…

そりゃそうだ。

だってそのアパートからは「学区外」の小学校だもんよ…。 


しかし兄妹で違う学校に通わせるとまた色々と面倒だという大人の事情の元に、

またもや私は自転車で祖母の家まで行って

そこから徒歩という通学スタイルをすることに。


これも後々担任の先生にバレて、

学校側と色々と問題になったっぽいです(笑)

 

ここまでが6歳。


続きはまた書きます。